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さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

レンピッカ ヴァロットン ヴァラドン

祝アクセス数、130,000突破

 11月27日(金)、謎の不良中年のブログアクセス数が記念すべき130,000を突破しました。栄えある130,000達成者は、「119.63.*.*」さんでした。ありがとうございます。

 130,000突破は偏に皆様のおかげのたまものです。深く感謝し、有難く厚く御礼申し上げます。


2010志功安川C表紙


 お礼に、おいらの秘蔵コレクションから、「2010年『棟方志功カレンダー』安川電気版(1975年「羽海道棟方版画」復刻版)」をお披露目します。


2010志功安川C1


 ご存じ棟方志功の版画は、安川電気によって昭和33年以来「安川カレンダー」として制作されており、その来年版です。

「安川カレンダー」は昔から根強い人気があり、その中でも昭和46年から5年間続いた「海道シリ-ズ」は特に人気を博していたと云います。

 その「海道シリ-ズ」が安川電気の創業100周年(2015年)に向けて復刻されることになり、その復刻版の第1回目として「羽海道棟方版画」(松尾芭蕉の「奥の細道」を辿る)がお目見えすることになったのです。


2010志功安川C7


 いやはや、こりゃ、凄いわ。最初にこの版画が紹介されてから既に34年も経過しているのですが、志功の版画は全く色褪せていません。

 やはり、志功は天才です。


 次回は、135,000ヒットを目指して精進いたしますので、これからもよろしくご指導のほどお願い申し上げます。


2009年12月1日(火)


 謎の不良中年 柚木 惇 記


壁に隠したロックウェルの絵、18億円

 いやはや驚いた。ノーマン・ロックウェルの「息子の旅立ち」が18億円である(ごめんなさい。ロックウェルの絵が見付かりませぬ。写真は、同時代だが似て非なるピンナップ)。


ピンナップ


 ノーマン・ロックウェル(1894~1978年)は、米国の市民生活の哀歓を描いた、アメリカ人に馴染みの深い画家である。今年閉店になった神田神保町の洋書「タトル」でロックウェルの画集を懐かしく見たことを思い出す。いわば、オールウエィズ「三丁目の夕日」のアメリカ版である。

 さて、そのロックウェルが52年前に描いた「息子の旅立ち」が、先月ニューヨークで開催された競売で約18億円の落札となった。 

 この絵の由来が面白い。ノーマン・ロックウェルの友人が今から46年前にわずか900ドル(約10万円)で購入した絵だという。しかし、この絵の購入者はこの絵の複製を描き、本物を隠したまま死亡するのである。しかも、その事実を誰にも言わないで、である。

 この男性は、ロックウェルの絵がよっぽど好きだったのだろうなぁ。

 調べてみると、本人は離婚をめぐる妻との争いでこの絵を奪われることを極度に恐れていたらしい。遺族がこの絵を専門家に調べてもらうと「本物と違う」と指摘され、息子が改めて家を調べたところ、本物は偽物を飾っていた後ろの壁の中から発見したという。

 壁の中に隠すのもすごいが、発見する方もこれまたすごい。これも、金の力か。

 それにしても、「事実は小説より奇なり」である。


 レンピッカ展を見て(その1)

 レンピッカ展(写真はレンピッカ。まるでブロマイドである)。


タマラドレンピッカ


 早くから観に行きたいと思っていた展覧会である。それが、先日映画界の鬼才S氏と飲んだときに、彼がふと漏らした言葉である。

「あの展覧会に行ったときにポスターを頒布していないかと聞いたら、売っていないんだょ。だけど、4月29日に行けば、先着300名様にポスターくれるって云ってたぜ」

 彼はその日の都合が悪いので、残念だとのたまう。おいらが当日レンピッカ展に顔を出したのは云うまでもない。

 さて、その当日。

 何時に到着したものか、おいらは考えた。会場である渋谷の東急文化村は10時開店である。

 レンピッカ展のホームページには、既に「ポスター配布、先着300名」と掲載されている。マニアにとっては、絶対に手に入れたいポスターである。

 最初は、開店30分前で充分かなと考えた。9時半到着である。しかし、万が一、それで301人目になったらその努力が水泡と消えてしまう。

 こういうときは万全を期すしかない。1時間前に到着しよう。何だか正月の福袋に並ぶときの気持である。

 ところが、当日の朝テレビを点けたら、東横線は沿線で火事があり不通だと云ってるではないか。おいおい、こりゃ参ったなと東急線のホームページを開けると各駅停車のみだが、既に復旧と分かった。

 ダイヤの乱れで渋谷駅に到着したのが9時丁度。東急文化村に辿り着いたのが、9時10分。予定より10分遅れである(写真下)。


東急文化村


 建物の外に行列が出来ており、勘定してみるとおいらは前から20人目。楽勝だったと一安心していたら、見る見るうちに行列が長くなる。

 それでもペースはそれ程早くはなかったのだが、100人程度並んだところで、建物の中に入れてくれた。開店20分前である。

 ところが驚いた。

 東急文化村で並んでいたのは、当日の映画「オーケストラ」とこの「レンピッカ展」の両方だと分かったのだ。

 係員がオーケストラとレンピッカ展の2列に分けて並ぶように指示をすると、ほとんどの人が映画の方に並んだのである。

 ひえ~! これには二度びっくり。

 何とレンピッカ展の列では、おいらが前から3番目になったのである。これでは、定刻に来ても充分間に合うではないか。

 開店時間になってやっと50人位並んだろうか。それに対して映画のオーケストラは引きも切らないほどの行列である。

 こりゃ、凄いわ(この項続く)。


 レンピッカ展を見て(その2)

「レンピッカ展」は予想を裏切らず、見応え充分であった。


レンピッカ 自画像


 しかし、おいらはこのレンピッカ(1898~1980年)の評価が難しいと思うのである。

 素晴らしいということは認めるのだが、素直に素晴らしいと云って良いものかどうか迷ってしまうのである。

 誤解を恐れないで云えば、単なるアール・デコの流行画家ではないか。そう評価されても仕方がないのではないかと考えてしまうのである。

 言葉を変えれば、東郷青児とどう違うのか。竹下夢二とどう違うのか、と云うことである。

 レンピッカが一流であることはもちろん認める。

 だが、超一流ではないと思うのだ。それは何故か。実はそれを考えたいのだ。

 恐らくこのレンピッカは20世紀初頭という時代と寝たのだ。

 だから、流行作家や流行歌手と同じで、時代が変われば見向きもされなくなったのだ。

 そこがレンピッカの限界ではなかったかと思うのである。

 しかし、人生の生き方としては超一流だろう。

 ポーランド(ワルシャワ)に生まれ、ロシアで結婚。ロシア革命によってパリに亡命後、画家になりたいと云う夢を叶え、緑の絵具とその美貌で一世を風靡する。

 その後、パリがドイツに占領される前にアメリカに亡命し、紆余曲折の後、彼女は世の中から完全に忘れ去られてしまう。

 しかし、晩年、再評価されて再び脚光を浴び、82歳で神に召されるのである。

 お~、何と云う人生であろうか。栄光と挫折。波乱万丈の人生。

 奔放に時代と生きた、真似の出来ない一生を生きたことには違いない(この項終り)。


ゲゲゲ展に行ってきた

 先々週金曜日、松屋銀座で開催されていた「ゲゲゲ展」に行ってきた(既に同展は終了。8月11日~23日開催)。


ゲゲゲ展


 会期終了間際であること、週末ということもあって、会場は大混雑(側聞するところによると、最終3日間は入場制限されたほどの大人気)。

 水木しげるの米寿記念と銘打っていたが、事実上、彼のマンガ原画展である。

 おいらはこれまでにも江戸博物館で開催された本格的な水木展にも足を運んでいたので、今回の展覧会は、何、大したことはあるまいと思っていた。

 しかし、毎朝「ゲゲゲの女房」を観ているので(HDDに録画しているので、正確には「まとめ見」をしている)、水木しげるがマンガに描く「点々」のことが気に掛かっていたのである。

 実際、原画で「点々」の威力を目の当たりにしたのだが、こりゃ凄いよ。

「点々」の迫力!

 原画は写植されて雑誌に印刷される。

 しかし、「点々」は写植されたり、印刷される際にインクで潰れたりするので、わざわざ「点々」を描き込んでも読者の目に触れることがないケースが多い。

 それに「アミ」(印刷用語で、背景や地をぼかすときに機械的に使う技術)や「トーン」(同じく、背景の地のこと)を使えば、わざわざ手描きで「点々」を表現する必要はない。

 それにもかかわらず、水木しげるは手描きにこだわり、Gペンで細密な氏の世界を創り出しているのである。


ゲゲゲ原稿


 一枚のマンガ原画だが、立派に絵画である。


 百聞は一見に如かず。それをまざまざと感じさせられたゲゲゲ展であった。脱帽!


本日と明日はお休み

 本日と明日は休日につき、お休みです。


ねこ娘列車


 写真は、米子と境港を結ぶ「ねこ娘列車」。

 ゲゲゲの鬼太郎(水木しげる)にあやかってのJRの観光作戦でしょうなぁ。乗ってみたい。

 それでは、皆様よろしゅうに。


平成22年9月11日(土)


 謎の不良中年 柚木惇 記す


松岡英丘展に行く

 先週、「松岡英丘展」に赴いた。都内練馬区立美術館である。


松岡英丘展


 松岡英丘のことは何も知らなかった。だが、神田神保町すずらん通りの額縁店に貼りつけてあった「松岡英丘展」のポスターの、あまりの出来栄えの良さに見とれてしまったのである。


千草の丘


 この女性の何とも云えない表情。

 横尾忠則が「話しの特集」の表紙や「江戸川乱歩全集」の挿絵に描いた表情ではないかと思うほどの不気味さ(褒め言葉である)まで醸し出している。

 最初、自画像ではないかと思った。

 だって、名前が英丘だよ。おいらは女流画家だと思ったのだが、これが男性。しかも、れっきとした日本画家であるということで驚いた。

 さらに、松岡英丘の得意な画が武者絵であり、自らも甲冑を身に纏うというのだから二度驚いた。

 とどめは、松岡英丘の実兄が民俗学者の柳田國男だということである。これにも驚嘆。

 ところで、この美人、誰がモデルかお分かりであろうか。

 水谷八重子(初代)である。

 うへ~。この展覧会では、驚くことばかりである。

 いやはや、松岡英丘、只者ではない。世の中にはまだまだ偉大な画家がいる。



モナリザの謎(前編)

 横浜のはずれにある寓居にいる。住み始めたころは駅前に2軒あった本屋が、いつの間にか1軒になっている。


北川健次2.jpg


 本屋は受難である。都市部の本屋でさえ潰れる時代である。鉄道沿線の本屋などひとたまりもない。しかし、そういうときだからこそ地元の本屋が自己主張すると「光る」のである。

 さて、その地元にあるI書店の店先に

「第10回 地元著者に学ぼう そして楽しもう『絵画の迷宮』北川健次著」

 とあるではないか(写真上。背景は北川健次氏の高島屋個展パンフ)。

 実は、少し前にも地元の大学教授が歌(句)について講演をするという貼り紙を見たばかりである。気にかかっていたのだが、定員に達したようで、暫くしたらその案内は無くなっていた。

 だからと云うわけではないが、この『絵画の迷宮』は妙においらに引っ掛かった。

 しかも、その本が店頭で平積みになっている。手に取ってみると、表紙がモナリザとフェルメールである。フェルメールはおいらがマークしている画家であり(フェルメールの絵は盗難にあっており、未だに見つかっていない油彩がある)、地元に著者がいるのであれば話しを聞くのも悪くはない。

 この店で著書(新人物文庫、12年3月刊。単行本は新潮社刊)を購入すると、店舗の2階で開催される講演会に参加でき、著者からサインも貰えるという。なるほど、I書店は慧眼である。

 さて、当日はもともと予定が入っていたが、おいらは大腸ポリープを切除したので(人の悪い友人は生体実験だと喜んでいたが…)その週の後半は全てキャンセルしたので、参加しようと思った。

 北川健次氏は、オフィシャルサイトによれば、「1952年福井県生まれ。多摩美術大学大学院美術研究科修了。駒井哲郎に銅版画を学び、棟方志功・池田満寿夫の推挽を得て作家活動を開始。90年、文化庁派遣芸術家在外研修員として渡欧。93年、来日したクリストよりオブジェ作品の賞讃を得る。版画、油彩画、オブジェの他に写真、詩、評論も手がける。2008年にランボーを主題とした作品が、ピカソ、クレー、ミロ、ジャコメッティ、ジム・ダイン、メープルソープらと共に選出され、フランスで展覧会が開催される」とある。

 しかも、著書によれば、モナリザとデルフト(フェルメールの育った街)の謎を扱っているというではないか。おいらは小降りの中、いそいそとI書店に向った。

 少し早めに着いたので出席者はまだそんなに多くないなと思っていると、著者の北川氏が来場された。既に会場は満席である(この項続く)。


モナリザの謎(中編)

 北川健次氏の講演は、興味深い言葉から始まった。

「日本の美術評論は、西洋に比較して百年遅れているのではないか」

 おいらは北川氏のこの言葉がストンと腹に落ちたのである。

 何故かと云うと、日本の美術学界には異説を受け入れぬ土壌があり、その反面、海外では広く異説を受け入れる要素があるようだと氏がのたまわれたからである。


北川健次1.jpg


 北川氏は続けられる。

 絵を描かない人の美術評論と、北川氏のように絵を描く人の評論とは異なるのではないか(氏は造形作家でもあられる)、そして、ダヴィンチが没してから五百年が経過しており、権威のある人が推論しようが、素人が推論しようが、ダヴィンチの研究が未だ不十分であるとするならば、その推論はいずれも仮説でしかないのではないか、と問われるのである。一理ある話しである。

 続いて、氏の強みにも触れなければならない。

 氏はダヴィンチに関する資料の現物を見たいという衝動にかられ、居ても立ってもいられなくなって現地に赴き、果ては大英博物館でダヴィンチの原稿や草稿の本物を手にされ、仔細に検分されたと云われるのである。だから、氏の推論は空論ではない。

 本論に入る。

 氏の書「絵画の迷宮」はモナリザの謎を追った、感性に満ち溢れた、あっと驚く結末のミステリーである。

 おいらは、モナリザを一度ルーブルで観ている。30年以上前のことであるが、はっきりとそのときのことを覚えている。モナリザはおいらの目に焼き付いている。

 しかし、おいらのモナリザのイメージは小さいころから観ている、印刷された安手の絵であり、しかもモナリザの絵自体は研究され尽くした、いわば手垢のついた絵という認識でしかない。

 身も蓋もない表現だが、しかし、この日、おいらは北川氏の講演を聞いて自分の思い込みが吹っ飛んでしまったのである。早い話しが、モナリザは第一級のミステリーだと知らされたのである。

 おいらは自分自身の無知に恥じ入ってしまったという次第である。

 具体的に述べよう。実は、モナリザは謎だらけだという。

1.モナリザのモデルは実在したのか。年齢は何歳なのか。絵の注文主は本当にいたのか

2.モナリザは何時描かれたのか

3.モナリザの謎の微笑は何を意味するのか

4.モナリザには何故眉毛がないのか

5.モナリザは何故喪服を着ているのか

6.モナリザの背景の景色は何故不気味なのか

7.モナリザの下腹部はふくよかで、妊娠しているのでないのか

 などなどである。驚くべきことに、これらの謎は未だに謎とされ続けていると云われるのである(この項続く)。


モナリザの謎(後編)

 北川健次氏は

「何故、名画は人の心を揺るがすか」

「何故、その作家に魅力があるか」

 と名作の持つ力を力説される。


北川健次3.jpg


 実際、モナリザは氏の心を揺るがしたのである。

 だから、氏は、このモナリザの謎(それはあたかも迷宮事件である)を解き明かそうと何かに取りつかれたようにこの作品を書き始めたと云われるのである。

 氏の感性の鋭さである。

 氏の講演を聞いて、おいらは、いやはや驚いたの何のって。

 要は、モナリザについては、まだ、何も分かっていないのである。ダヴィンチについても謎だらけなのである。

 例えば、ダヴィンチは普段から鏡文字(左右反転する文字)を書いていたのだが(初耳だょ)、何故彼が鏡文字しか書かなかったのか、その理由も未だに定説はない(著書には有力な説が掲載されているが…)。

 つまり、ダヴィンチのことも研究され尽くしていないというのが正直な話しらしい。

 ルネサンスの巨匠であるダヴィンチは規格外の、異才の、超弩級の、天才であったのだ。しかも、研究の内容は空前絶後であり、その範囲は尋常ではなく、しかも膨大な量の研究を行っていたので、その果実も半端ではない。だから、ダヴィンチにも無数の謎が残されていると云うのだ。

 恐らくその真相は、あまりにもダヴィンチの視野が広過ぎたのと、現代の科学でも解明できない記述が多すぎるのではないだろうか。何、実際は後世の学者に手が余るというのが実情かも知れないが…。

 だからという訳でもないが、北川氏はダヴィンチに関する謎解きから始め、その精緻な推理はモナリザの秘密のヴェール剥ぎに及ぶと云う、極めて興味深い推理を展開されておられるのである。

 残念ながら、氏のこの作品はミステリー仕立てになっているので、ここで種明かしをすることはできない。

 氏のダヴィンチに関する講演でも、種明かしはお預けだったのである。

 ただ、それだけでは、このブログの読者も消化不良になられる恐れがあるので、著書の口絵を掲載したい(写真上)。モナリザを反転させてダヴィンチの自画像に重ね合わすと、両者は一致するのである。驚くべき事実である。

 氏の「絵画の迷宮」をお読みになれば、ダヴィンチがダヴィンチになった秘密、そして、ダヴィンチがどうしてもモナリザを描かざるを得なかったという謎が解明されるのである。

 う~む。氏の感性の鋭さには脱帽するしかない。こういう答えがあったのかぁ(この項終り)。



白隠展を見てきた

 遅ればせながら、駆け込みで「白隠展」を観てきた。渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムである(昨日まで開催)。

 おいらの親友から白隠(江戸時代中期の禅僧)は凄いと云う話しを聞いていたので、行きたいと思いながらも時間が取れなかったので、最終日直前に観ることになった。

 これが噂に違わず、凄い。もうその一言に尽きる。


隻履達磨1.jpg


 上の写真は「隻履達磨(せきりだるま)」。これが、まず白隠展の入り口に飾ってある。

 禅画にこれほどの迫力があるとは思わなんだ。いや、これを禅画と呼ぶのは失礼である。これは紛れもなく芸術である。とにかく圧倒されるのだ。

 ほとんどが紙に書かれたものであるが(稀に絹)、大きな紙に自由な筆使いで、しかも、墨だけでなく、色彩を使ったものまである。

 はっきり云って、デッサンは出鱈目である。つまり、西洋画的な要素での評価はできないのだが、これが巧い。下手なのだが、巧い。つまり、巧いのである。

 それに賛(文章)がちりばめてある。画と文のコラボである。おいらに漢籍の素養がないので、読み下すことは難しいのだが、それでも画と文とが旨く合わさって心に響くのである。

 どうでも良いことだが、「擂鉢(「すりばち」と読む)」の賛では、

「楽しみは 後しろに柱、前に酒、きにあふた客、擂鉢のおと」

とある。

 なお、この元歌は、

「楽しみは 後しろに柱、前に酒、両手に女、ふところに金」

である。

 もっと、早く観て、心ある人々に白隠を推薦しておくのだった。



貴婦人と一角獣(前篇)

 昨日まで東京六本木の国立新美術館で開催されていた「貴婦人と一角獣展」を終了間際に観てきた(写真)。


貴婦人と一角獣1.jpg


 この絵「貴婦人と一角獣」の簡単な解説をする。

 フランス国立クリュニー中世美術館に所蔵されている謎の巨大タペストリー(織物)6枚組のことである。

 かの有名なジョルジュ・サンドが紹介して一躍脚光を浴びた15世紀の作品である。

 だが、おいらは、タペストリーを高くは評価していないのである。芸術性が高いとはいえ、所詮、織物である。

 それに、この絵はNYに住んでいたときにコロンビアにあるメトロポリタン・ミュージアム別館で観たことがある。だから、おいらにとって今更と云う気が強かったのである。

 ただ、この奇妙な絵のことは良く覚えていた。何せ、巨大なタペストリーが複数枚、部屋を埋め尽くしているのである。それに空想上の動物、ユニコーンである。宗教的な色合いが強く、観る者を圧倒させる力が秀でていた。

 ところが、である。

 調べてみると、この貴婦人と一角獣は門外不出であり、今回の貸し出しは二回目でしかない。一回目のときがメトロポリタン・ミュージアムへの貸し出しかと思ったら違っていたのである。

 おいらがみた一角獣は、下の写真である(メトロポリタン・ミュージアムで買った絵葉書をそのまま掲載)。


一角獣.jpg


 確かに違う。

 世の中には似たようなタペストリーがあるものじゃのぅ。

 そこで、今回来日した貴婦人と一角獣に俄然興味が湧いてきたのである(この項続く)。


貴婦人と一角獣(後篇)

 国営放送が日曜日の朝に放送する「日曜美術館」を毎週録画している。


貴婦人と一角獣2.jpg


 そこで「貴婦人と一角獣」を特集していたはずだと引っ張り出し、再生して観た。

 これが見応えがあったのである。

 六枚の絵の五枚までは謎が解けていたことが分かった。答えを明かしてしまうと、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を表しているという。

 そして、青い垂れ幕のある、残りの一枚の謎がまだ解けていないのである。

 だが、MON SEUL DESIR(我が唯一の望み)と書いてある意味は、第六感(心)や愛ではないかと考えられている。そして、一角獣を捕獲するためには、無垢の女性をおとりにするらしいのである。だから、貴婦人と一角獣なのだ。

 そういう予備知識を得て、六本木に足を運んだのである。入場料、1,500円。

 ご対面である。

 やはり、このタペストリーはでかい。大きな会場に六枚のタペストリーが分散して展示してあるのだが、それでも圧倒的な存在感である。

 しかも、これが織物で創られたのかと思うほどの出来栄えである。前篇で述べた「所詮、織物である」という表現は撤回せざるを得ない。ジョルジュ・サンドがこの絵の行く末を心配したのも頷けると云うものである。

 ただし、500年という時間は重い。経年だけのことはある。つまり、古い。昨年、洗浄し、カビやネズミにより傷みが激しい部分を修復したという話しを聞いていたので鮮やかな色合いに戻っているかと思っていたのだが、思っていたほどではなかった。

 結論。

 百聞は一見に如かず。こういう大作は、見るしかない。そして、自分の魂がこの絵から直接揺さぶられるのを感じなければダメだ。

 1500年当時の中世ヨーロッパでこれだけの物が創られ、それを今、目の前で観ているのである。理屈を云っても始まらない。

 なお、この絵の数奇な運命は、ウイキペディアなどをご参照あれ。興味の尽きない絵である(この項終わり)。



石田徹也展に行く(前篇)

 石田徹也展を観てきた。


石田徹也展1.JPG


 2014年4月12日から6月15日まで平塚市美術館で開催中である。

 おいらが最初に石田徹也の作品を観たのはいつごろだったろうか。

 随分昔のような気がするのだが、書店の美術書のコーナーで作品集を観たように思う。とにかく彼の作品には鮮烈な印象が残っている。

 あまりのシュールな絵にショックを受けたのである。

 普通、それだけのインパクトがあればおいらの場合、その本を買うのだが、観てはいけないものを観たような気がして元に戻し、彼のことは封印していたのである。

 しかし、その石田徹也展が開催されたのである。


めばえ.jpg


 上の絵を観ても分かるようにサラリーマンの悲哀を通り越してシュールな絵となっているのである。これはもう一度観るべし、やはり、現物をじかに観るべし。

 そういう風に思わせる画家である。


 さて、おいらは先週、時間を作って湘南まで出向いた。横浜から平塚までは電車で35分と近い。

 平塚は七夕で有名だが、戦前は海軍の火薬工場があったので栄えた街である。

 しかし、軍需産業があった関係で米軍の爆撃をもろに受けた。市内は空襲の標的とされ、ほとんどが焼け野原となった経験を持つ。

 平塚駅から美術館に行く途中に平塚八幡宮があり、その隣に洋館がある。


洋館.jpg


 有名な「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」である。

 元々は明治時代に創設された英国と日本の合弁でできた火薬製造会社の英国人将校の住居であった。この建物は奇跡的に空襲から逃れたのだ。良く見るとコロニアル様式で、長崎のグラバー邸のようではないか。

 こういうところを散策するのも美術館巡りの愉しみである。さあ、美術館はもう目と鼻の先だ(この項続く)。


石田徹也展に行く(後篇)

 平塚市美術館に到着である。


石田徹也展2.JPG


 いよいよ石田徹也にご対面である。

 石田徹也、1973年、静岡県焼津市生まれ。武蔵美術大卒業後、数多くの絵画賞を受賞し、はた目から見れば順風満帆の画家人生を送りながらも2005年、踏切事故で逝去(自殺という説もある)。享年31歳。

 絵は、ほとんどすべてが自画像である。

 そして、その多くがサラリーマンの日常をモチーフにしている。ナイーブな表現が多いが、身も蓋もない描写になっているのでシュールである。


飛べなくなった人.jpg


石田徹也燃料補給.jpg


 それが単なる風刺ではなく、本人の怖さの表現のようにも思えるので観るものの心に直接訴えてくる恐ろしさがある。

 誤解を恐れずに云えば、逃げ場のないところに追い込まれた自分の恐怖がそのまま描かれている。だから、観るものの心を打つ。

 しかも、絵がずば抜けて巧い。また、細部に至るまで緻密だから凄みに磨きがかかっている。

 さて、石田徹也の初期作品にはペーソスがあった。ナンセンスに近いユーモアである。しかし、経年によってシリアスになった。シュールがシリアスになると、行きつく先はエロスとタナトスである。


回収.jpg


 作風がそうなるころ、人生の幕が降りた。不世出の画家である。こういう画家はもう出てこないだろうなぁ。

 逝去後、6畳一間のアパートの自室内から約150枚の絵が出てきたという。絵は、描くためだけのものであったのだろうか。

 天才を分かるには天才である必要がある、とつくづく思う(この項終わり)。



本日から三日間は連休につきお休み

 本日から三日間は連休につき、お休みです。


上原木呂1.jpg


 写真(コラージュ作品)は、上原木呂(うえはら きろ)氏の作品。日本国内ではほとんど知られていない画家(人形使い、舞台俳優など各種パフォーマーでもあるらしい)です。

 2010年のドイツ・レーゲンスブルグ市立美術館での二人展「上原木呂とマックス・エルンスト―シュルレアリスム東と西」の図録(写真下)を手に入れたので、この人に興味を持ちました。


上原木呂2.jpg


 氏は、1948年新潟生まれ。東京芸大出身。イタリア在住中、コンメーディア・デラルテ(イタリア古典仮面喜劇)を学ばれたのだそうです。とりあえず、面白そうな人なので紹介する次第です。


 それでは、皆様よろしゅうに。


平成26年7月19日(土)


 謎の不良翁 柚木惇 記す



冷徹な絵描きヴァロットン(前篇)

 スイス、レマン湖の北部に位置するローザンヌに生まれたヴァロットン(VALLOTTON)は、冷徹な絵描きである。


ヴァロットン展2.jpg


 をんな(女)の裸を描いても温かみに欠け、観る者に突き刺すような感触を与える。しかし、それが彼の絵の良さだという人もいるのだろう。かく云うおいらもその一人である。

 旧聞に属するが、このヴァロットンの美術展を観てきたのは今年の9月16日のことである(2014年6月14日~9月23日。三菱一号美術館)。


ヴァロットン展.jpg


 母が他界して間がなかったが、このときに観ておかなければもう日本では二度と観ることができないだろうと時間を創って三菱村まで出かけた。パリ、オルセー美術館待望の世界巡回だから。

 さて、その絵は評判に違うことのない力作揃い。

 代表作と云われると怒られるかも知れないが、「赤い絨毯に横たわる裸婦」は傑作である(写真下)。


赤い絨毯に横たわる裸婦.jpg


 1909年の作品である。当時の感覚から云えば、大胆不敵な絵だろう。

 このをんなはどういう立場のをんなだろう。人妻か、娼婦か、それとも今様のグラビア・アイドルのつもりか。

 だが、この眼は何を訴えているのだろうか。「あなた、どこを観ておいでなの」と軽侮しているのか。それとも、このポーズでおいらを誘惑しているのか。同時に彼女の眼には隙(すき)がない。

 おいらはエロティシズムとは死と隣り合わせと云う考えの持ち主である。この絵には死が垣間見えているような気がする。隣に死神がいるのだ。

 大きさは、73×100センチ。結構大きい。圧倒される。

 スイスジュネーブ、プチパレ美術館蔵。

 ヴァロットンは、この絵同様に凍り付くエロティシズムを他にも多く描いている。ヴァロットン、只者ではない(この項続く)。


冷徹な絵描きヴァロットン(後篇)

 そして、この謎の微笑。「貞節なシュザンヌ」である。


貞節なシュザンヌ.jpg


 シュザンヌ(英語読みだとスザンナ)は旧約聖書「ダニエル書」に登場する女性。彼女は夫の留守の間に貞節を汚されそうになり、拒絶したにもかかわらず、姦通の冤罪となる(最後には無実が証明される)。

 怪しく輝く眼というが、解説は不要だろう。

 さて、ヴァロットンで気にかかったのは、当時のパリの大画商の娘と結婚していたことである。直感的に思うことは、何故大画商の娘と結婚したかである。

 生活のためであったなら、幸せな結婚生活だったのだろうか。

 なお、習作として残されていた臀部の絵は見応えがある(写真下)。


ヴァロットン臀部の習作2.jpg


 写真では臀部のマチエール(質感)がよく分からないため、立体感が全くない。つまり、この油彩は失敗作に観える。

 だが、この絵を目の前で直に観ると十分なマチエール表現となっており、尻の立体感を出すことに見事に成功している。

 ヴァロットンにとっては、尻は林檎や馬鈴薯同様単なる絵の具材にしか過ぎないのだろう。シンプルな素材を描いていくと、油彩はフォルムとマチエールによって成り立っているのだとつくづく思ってしまう。

 おいらが観ていた当日は、美大生のような女性がこの絵を食入るように見つめていた。習作であっても良いものは良いのだ。

 当たり前だが、絵は実物を目の前で観なければ話しにならない。

 ヴァロットン、不思議な、それでいて魅力のある画家である(この項終わり)。



ユトリロとヴァラドン(前篇)

 ユトリロという名前はご存知の方でもヴァラドン(Valadon)という名前を聞いたことのある人は少ないのではないだろうか。


ユトリロとヴァラドン.jpg


 かくいうおいらも「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」(なんと長い名前の美術館なのだ。事情はあるのだろうが、この美術館のセンスを疑う?)で「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語」を観るまでは知らなかった。

 美術館の名前もひどいが、このタイトルもまずいなぁ。これではユトリロとその母との美談に思えるよねぇ。

 しかし、実際には二人とも画家で、その二人の画家の展覧会なのである。しかも、二人はたまたま母と子の関係だったに過ぎないことが分かる。

 だから、このタイトルは「ユトリロとその母ヴァラドン 二人の画家の物語」でなければならない。

 さて、ヴァラドンである。

 シュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon,1865年~1938年)はフランスの画家。スュザンヌは仏語読みだから、英語ではスザンヌとなる。

 ヴァラドンは貧しい洗濯女の私生児として生まれた。彼女が5歳のときに母マドレーヌとともにパリへ移り住み、お定まりのように様々な職を経験する。

 その後、経緯は不明だが、ヴァラドンが15歳のとき当時フランス画壇の大御所だったシャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行ったのである。


Suzanne_Valadon_Photo.jpg


 このときシャヴァンヌは初老(58歳)にもかかわらず、彼女の虜となり彼女をモデルとするのである。画家のモデルといえば美形が条件で(上の写真を見るかぎり彼女は妖艶である)、しかもヌードになると決まっているだろう、その上、彼女は奔放な性格のようで、シャヴァンヌの愛人となる。

 パリ大学大講堂にあるシャヴァンヌの代表作「聖なる森」に描かれた8人の裸の女性はすべて彼女がモデルだと云われている。

 ヴァラドンはその後、ルノワール、ロートレックの絵のモデルにもなる(ルノワールの「ブージヴァルの舞踏会」、「都会のダンス」やロートレックの「二日酔い」は彼女がモデルとして有名)。

 つまり、ルノアールの愛人ともなり、ロートレックとも恋中(こいなか)になり、二人は同棲するのである。

 う~む、この男性遍歴にはなんだか眩暈(めまい)がしてきた(この項続く)。


ユトリロとヴァラドン(後篇)

 しかし、そのヴァラドンには絵心があったのである。


img_0001.jpg


 彼女は、小さなころロシュシュアール大通りの路上に白墨をつかって絵を描くのが好きな少女だった(写真はヴァラドンとユトリロ)。

 その彼女がモデルになったとはいえ、当世一流の画家と接するのである。彼女はいつしか画家を目指すようになる。ロートレックからデッサン力を評価され、あのドガに師事することになる。

 彼女はフランスの偉大な作曲家エリック・サティとも付き合う(のち破局)など派手な男性遍歴は続く。

 その彼女は31歳のとき、数年来同棲していた資産家のポール・ムージと結婚する。

 さて、ここまでユトリロとヴァラドンの話しといいながら、ヴァラドンの話しがほとんどである。

 ここで彼女が18歳のときに遡らなければならない。

 ヴァラドンは18歳のときに私生児を生む。この子供がユトリロである。実父が誰かはわかっていない。

 ユトリロが絵を描き始めたのは母であるヴァラドンに勧められたからである。息子のユトリロはアル中になっており、彼女は息子からアルコールを遠ざけるために絵を勧めたのである。

 余談ながら、息子のユトリロは祖母によって育てられる。祖母は赤ん坊のときによく眠れるようにとスープにワインを混ぜたといい、ユトリロがアル中になったのはそのためかもしれないと云われる。

 しかし、彼女は息子のユトリロが画家として成功するまでは息子に絵画の才能があるとは思っていない。また、息子のユトリロも母から絵画を学ぶことはなかったという。したがって、二人はお互いの作風に影響を受けることがなく、それぞれ独自の絵のスタイルとなった。

 具体的には、ユトリロの作品がほとんど白を基調とした風景画であるのに対し(「白のユトリロ」)、ヴァラドンの方はほとんどが人物画である。ヴァラドンの人物画の大胆なフォルムは絵の師匠であるドガやロートレックの影響を受けていると思われる。


白のユトリロ.jpg


 さて、そのヴァラドンの男性遍歴は続く。

 彼女は44歳になり、息子の友人である画家志望の青年アンドレ・ユッテル(息子より3歳年下)を恋人にし、ムージスと離婚する。息子の友人と不倫するなど彼女にはどうも背徳の匂いがするのぅ。

 その彼女はユッテルをモデルにすることにより脂が乗り、「アダムとイブ」、「網を打つ人」など彼女の代表作を次々に製作することになり、49才のときにユッテルと正式に再婚するのである。

 ヴァラドンは6年後、サロン・ドートンヌの会員となり不動の名声を得る。後に彼女の主要作品はフランス政府によって買い上げられ、パリ国立近代美術館に所蔵されるなど晩年は充実した画家生活を送ることになった。

 いやぁ、それにしても恋多きおなごじゃのぅ。あのユトリロが霞んでしまう。ヴァラドン、波乱万丈の物語(この項終わり)。

 なお、「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語」は「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」(東京都新宿区西新宿)で6月28日まで開催中。ユトリロの絵はご存知のとおりだが、ヴァラドンの絵は迫力満点である。期待しないで観に行くと大儲けする企画展である。





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